
はじめに
Beethoven
作品5 2曲のチェロソナタについて
チェロソナタ 第1番 Op
5-1
F. Schubert
アルペジョーネソナタ 1 2 3 4 5
2011年秋 リサイタルシリーズ
もくじ
表紙 |
Beethoven ピアノとチェロの為のソナタ 作品5−1,2
作品5の2曲はベートーヴェンがウイーンに移り住んで間もない1796年、ベートーヴェン26歳の時に作曲された。ベートーヴェンのパトロンだったリヒノフスキー公爵(侯爵だったか?)がベルリンへの演奏旅行をお膳立てしてくれた機会に作曲された。リヒノフスキーはフリーメイソンの兄弟で、かつてから親しいフリードリッヒ・ウイルヘルム二世にソナタを献上し御前演奏をするように取り計らった。ベートーヴェン自らのピアノでこの時チェロを弾いたのがフランスから来たチェロの名人ジャン・ルイ デュポール(Jean-Louis
Duport)である。フリードリッヒ ウイルヘルム二世は音楽愛好家でチェロをかなり良く弾いたらしい。ベルリンの宮廷にオーケストラを所有していて、そのカペルマイスターがデュポールであった。因みに先代はバッハが「音楽の捧げもの」を献呈したフリードリッヒ大王である。
チェロのエチュードを書いたジャン・ルイ デュポールの名前はチェリストだったら知っている人が多いだろう。モーツァルトの伝記を読んだ人はこの名前の覚えがある人も多いのではないか。ベートーヴェンが謁見した数年前、経済的に逼迫していた晩年のモーツァルトも職を求めてフリードリッヒ・ウイルヘルム二世に謁見した。この時もリヒノフスキーの取り計らいだった。その時ベルリン宮廷での直接交渉相手であったのがカペルマイスターのデュポールである。
モーツァルトは僅かな(?)謝礼と6曲の弦楽四重奏曲の作曲献呈を取り付けて失意のうちにベルリンを後にした。モーツァルトが必要としていたのは作曲依頼ではなく、ベルリンでの定職だったのである。約束の四重奏曲も3曲書いただけで放棄してしまい、結局はベルリンに職を得られずじまいであった。それがモーツァルトが最後に書いた3曲の四重奏曲「プロシア王セット」である。モーツァルトはこの四重奏曲でチェロをソロ楽器として使うように要請されたが、チェロに旋律を持ってくるとバスを受け持つ楽器がヴィオラになってしまう事に不都合を感じていて、だんだん気が向かなくなったようだ。おまけに、モーツァルトはデュポールにフランス語で話すように強要されたことを根に持って、「あのフランスのクソ野郎」とか散々なことを書き残している。モーツァルトはなんとチェロソナタも献呈しようと書きかけていたのだが、デュポールとの確執が原因か他の理由によるのかこれも僅か数小節のみで放棄されてしまった。こうして、デュポールとはチェリストにとってあまりありがたくない逸話ばかりが残ってしまった。このソナタが完成されていれば西洋音楽史上初めてのピアノとチェロの為のソナタになっていたのだが、その仕事は数年後の若きベートーヴェンの手に委ねられることになったのである。
このリヒノフスキーという人は面白い。モーツァルトにもいろいろ便宜を計らった大変な音楽好きだった。ベートーヴェンがウイーンに来てからは自分の家に住まわせたり、社交界にベートーヴェンを連れ歩き長い期間ベートーヴェンが生活に不自由しない程度以上の資金を提供していた。
ベートーヴェンがウイーンに移り住んだのはモーツァルが他界した翌年1792年である。 モーツァルトが存命していたらこれほどの厚遇は得られなかったかもしれない。ベートーヴェンはある意味ちょうど良いときにウイーンに来たのではないか。
チェロソナタはこれ以前にもイタリアではボッケリーニなど、フランスではブレヴァルなど多くのチェロの名人たちが書いているが、通奏低音とチェロの独奏という形式のいわゆるバロックソナタで、チェロ2本又はチェンバロあるいは初期のピアノフォルテとチェロで演奏されていた。この時点でのベートーヴェンのこの2曲は「ピアノとチェロ」のためのソナタである。出版社によっては「チェロの伴奏付き」ソナタとしているところもある。 ベートーヴェンのソナタとそれ以前のチェロソナタの決定的違いはチェロとピアノと楽器が指定されていることの他に、ピアノが和声を補填する(通奏低音の)役割ではなく、独立したパートであること、というよりピアノパートは音楽的な役割を担い、チェロの伴奏楽器ではない事である。モーツァルトやハイドンのヴァイオリンソナタもこういった形で書かれていたのでベートーヴェンはそれらを参考にしたであろうとは容易に想像できる。
ベルリン行きはかなり急にに決まったようでベートーヴェンはこの2曲のソナタをかなり大急ぎで書いたようである。自分も演奏することが念頭にあったので、ピアノパートはかなり名人芸的な見せ場がある。この時点ではベートーヴェンはむしろピアニストとして名声が高かったし、本人もピアニストとしての野心もまだかなりあったころだ。26歳の青年ピアニストの颯爽とした感じが随所に表れる。デュポールに関してベートーヴェンはどの程度情報と知識があったのかは不明であるが、いくつかのパッセージでデュポールのエチュードに出てくるテクニックを意識して書いたのではないかと思われるところがある。チェリストのB. ロンベルグ(Romberg)とはボン時代から交友があったのでこのロンベルグからの情報もあったのかもしれない。このことに関しては後で少し述べる。
残念ながらこの時の御前演奏がどうだったとか、デュポールとはどんな風だったとか云う記述に出会ったことがない。特に何もないところを見ると少なくともモーツァルトの時よりは友好的にことが進んだのであろう。
以下続く
2011年1月7日
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