はじめに

Beethoven 

作品5 2曲のチェロソナタについて
 
チェロソナタ 第1番 Op 5-1

F. Schubert

アルペジョーネソナタ 1 2 3  5

 

 

 

 

 

 

 

2011年秋 リサイタルシリーズ

もくじ

3. アルペジョーネソナタ解説

 アルペジョーネソナタはシューベルトの最後のピアノソナタやカルテットに双肩するくらいの名曲とこの項で前に書いたが、曲の構成はこれらの曲に比べるとずっと常套的である。第一楽章は二つの主題と展開再現というソナタ形式を踏まえたわかりやすい形式でこれといった説明も必要が無いくらいである。第二楽章はリート形式の前半に次楽章につなげる経過部、第三楽章は明確なロンド形式という風に構成的にも形式的にもこれといった目新しいものがあるわけではない。本来がアルペジョーネという新作楽器の紹介と奏者の腕を見せるという意図があって書かれた曲であると思われるので、14番(死と乙女)や15番カルテットのような労作的ソナタではない。では何故この曲はここまで人の心をうつほど美しいのかと考えると、やはりそれはシューベルトの天賦の才としか言いようが無い。ありきたりなリート形式によるちょっと聞くと何の細工も施されていないような素朴なリートも、もっと労作的なリートと同じくらい美しい曲があるように、音楽の美しさの本質は労作、技巧とは別の所にあるという証である。しかし詳しく見てみるとその美しさの秘密とでも言うべき様々な「細工」がちりばめられた宝石のようにあちこちにあらわれる。そういった観点から解説をしてみようと思う。

第一楽章 (4/4 アレグロ モデラート イ短調)


 ピアノからいきなり第一主題を提示するが形としてはちょうどリートの前奏といった感じに聞こえる。まさに「うた」である。この9小節の前奏ですでにいろんな「細工」がある。まず何故9小節かである。8小節ではない。その秘密は7小節目にある。(譜例1)この小節を便宜上M1(モチーフ1)とよぶことにする。 音源1

この7小節目は学校で習う和声実技的に言えば不要な和声進行でこの小節を省いても実は音楽は成り立つのである。それを次に示した。(音源2合成音)


 8小節目を省いた以外はシューベルトの書いたとおりである。譜割りがいいのでむしろすっきりした感じになるが、如何せんいかにも凡庸である。しかし普通の多くの作曲家はこれでも満足するのではないか。決して悪い音楽ではない。しかしシューベルトがどう書いたか知ってしまった耳にはもう我慢ならない。シューベルトは冒頭を単なる前奏にしないでいきなり印象的なことを二つも行ったのである。始めの4小節は平易で素朴な音楽である。ところがそれに続く5小節目ですでに美しい転調をし(技術的にはa mollの9度のドッペルドミナント)さらには6小節目で『ナポリの6度』を用いるのだが(「ナポリの6度」はウイキペディアに項目があるかと思ったが無かったので、この項の最後に注を入れた)ここでありきたりなナポリの6度の進行(譜例2)を避け1小節を挿入して変ロ長調という少し離れ調性で遊ぶのである。ナポリの6度はa moll (イ短調) の場合 B dur (変ロ長調) 第一転回形の和音である。これにシューベルトはさらに変ロ長調の属7(第三転回形)を挟んで、音楽がいったん立ち止まった様な、あるいはどこへ行こうかとためらう様な、「揺れ」の1小節を挿入したのである。ここがまさにシューベルトの非凡だと思う。さらにこの部分は後でいろいろ形を変えて出てくるので曲全体の「核」といっても大げさでは無いかもしれない。
この後いよいよソロが同じ主題で入ってくる。(音源3)ほとんど前奏と同じようだがこちらはもう少し引き伸ばされアルペジョーネの広い音域を存分に使って書かれている。そして「M1」が今度は3小節に拡大されて出てくる。

 前奏の「M1」に、ここではさらに新しい印象的なモチーフを加えてあらわれる(M1-2)。このモチーフのDは左手の和音から見ると長7度の非和声音である。シューベルトはそれを3度繰り返すのだ。Dには一回目アクセントを付け二回目にはクレッシェンドも加え3度目にはFpまでつけて固執する。まるで何かにすがるかのような、訴えるような執拗さで。何にすがりたかったのだろう。この曲を書いている頃の精神的な不安がこういう音楽を書かせたのだろうか。前奏部と同じくこの部分も和声進行上は省ける、いわば余計な小節である。 それを思うとこの挿入にシューベルトがいかに拘っているかが理解できる。
 第二主題の前にまた第31小節目から9小節の前奏部が今度はチェロで(本当はアルペジョーネだが以後便宜上チェロと書く)繰り広げられる。 (音源4) 即興的で器楽的技巧を見せる音楽である。37小節目からの5小節にもまた挿入小節で「細工」が施されているのは冒頭の作りに似ている。カギカッコでくくった小節がその「細工」である。この小節も省いて次の小節に行くことが和声的に可能で、そうするとちょうど8小節の割り切りのいいフレーズになるのだが、前の例と同じくこの小節がこの音楽の美しさをかもし出す重要な部分なのである。経過句という無味乾燥な楽曲用語にはもったいないくらい美しい部分である。(譜例4)

 第二主題からは軽快な音楽である。(音源5)16分音符主体のどちらかというと表面的な技巧を見せるためのコンチェルタンテな音楽の形をとっている。同時代のシュポア、ローデといったヴァイオリンの名手、又はチェロで言えばロンベルグなどが書いたコンチェルトの技巧パッセージの書き方を参考にしたかもしれない。 依頼者シュスターから技巧的パッセージを入れるよう要望があったか、時代的背景の慣例なのかとも想像したりする。とはいえシューベルトである。無味乾燥になりがちな16分音符のパッセージも美しい。チェリストにとっては上がったり下がったりの難しいパッセージである。 余談だがガスパール カサドに、この曲のこういうコンチェルタンテな性格を強調してオーケストラとチェロのために書き換えた作品がある。ワンダラーファンタジーをオーケストラとピアノに書き換えたリストにならったのかもしれないが、あまり趣味の良いものではない。
 展開部はピアノが第一主題をF dur (ヘ長調)で奏でチェロがピツィカートで伴奏する所から始まりA dur (イ長調)の和音で止まった所で前述したM1が80小節目にあらわれる。 このモチーフはさらに97小節目からもう一度出てくる。(音源6

こうしえ見ると前奏の何気ない1小節がこの曲の中でどれほど重要な位置を占めているかがよく分かる。このパッセージはチェロがロングトーンで和声を支えているが、105小節目からの和声の移り変わりも同じ方法をとっている。(譜例6 音源7)この転調の見事さと斬新さはシューベルトならではのものである。

クライマックスに達した音楽は4小節にわたるホ長調和音の上にチェロが高音部から最低音のミまでゆったりと降りてきてから再び3連符で上昇したかと思うや、突如絶望的なホ長調の9度和音の叫びとなり再現部にいたる。
  再現部はほぼ提示部を正確に再現しているが137小節目からはピアノパートに提示部ではなかったソロがあらわれる。 (音源8) 第二主題に入る前の経過句はチェロパートがアパショナートな音楽に変化し、和声的にもイ短調からイ長調へと揺れ動き移ろう、シューベルトらしい極上な美しさの音楽である。(音源9

このあと第二主題は慣例的にイ長調で再現され、188小節目からはコーダに到る。コーダは少しずつ力を落としてゆく、どこか絶望感を漂わせた音楽である。

 

 

注1 「ナポリの6度」:短調の和声進行形の定型で使われる I-II-I-V-Iの変形で第二音(イ短調の場合シ)を半音下げた形にしたもの。 ナポリという形容は古くからギリシャなどと交流のあったナポリ地方に残っていた右のような「旋法」から由来したのではないかと想像する。(ミの旋法)。6度とは数字付き低音の事で6♭という数字をつける。

バロック時代にバッハなど多の作曲家によって使われたが、モーツァルトも好んで使った。長調にも同様に使う事もある。この和音は主和音の半音上の完全5度和音(イ短調の場合変ロ長調)であるが、第一展開形で使われ第3音(この場合ではレ)が重複されるのが慣例である。右の譜例では通常の進行、はナポリの6度である。

 

 

 

 

 

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お断り:この項の音源2及び注以外の音源は1992年札幌サンプラザホールでの津留崎直紀(Vc) 野平一郎(Pf)によるコンサートの録音です。尚これらの音源を含めて当サイトの無断使用、複製は著作権法により禁じられています。