ベートーヴェンの「第九」のテンポについて

 

 

 この間からベートーヴェンの交響曲のメトロノーム表示を見て表を作っている。全部で9曲36楽章。第1、2、4番などは序奏と速い部分があるし、第九の終楽章のように途中でテンポが変わる楽章もあるので、メトロノーム表示はもっとたくさんある。四重奏曲やチェロソナタのテンポをそれから推察してみるのである。これはちょっと面白い作業である。

 よく知られているように1817年にベートーヴェンはそれまで書いた8曲の交響曲全ての楽章にメトロノーム表示を書いて出版し直した。弦楽四重奏曲やピアノソナタにも付けるように再三言われ、本人もそうするつもりだったようだが残念なことに実現されなかった。ベートーヴェンがこの世を去る1827年になってもまだSchottと作品127(12番四重奏曲)のミスプリントの訂正を依頼する手紙をやり取りしていたそうだ。メトロノームにかかわる時間が無かったのかもしれない。

  楽譜のミスプリントというのは信じられないくらい多いもので、ベートーヴェンもいつも嘆いていた。普通よく使われているB社のパート譜にすら200年近く経った現在でもまだあるくらいで、フランスD社等のフォーレやドビュッシーの間違えなどは殆ど絶望的だ。音符の間違えは言うに及ばずだが、テンポ表示、メトロノーム表示の間違えは数え切れない。

 第九終楽章でのメトロノーム表示に関して昔からずっと気になっていたのは、チェロとコントラバスのレチタティーヴォだ。冒頭は66とある。このテンポは普通一般的にだいたいこのテンポかあるいはもっと速いテンポで演奏されていることが多いがその後、チェロ、バスが入る所には何もテンポの指定が無いばかりか、 ≪ selon le caractere d'un recitatif, mais in tempo ≫(アクセントは以下も割愛) と書いてある。なぜフランス語で書いたのかはこの際あまり関係ないが、なぜだろう。まあそういう気分だったのだろう。 高校生の頃スコアと一緒にレコードを聴きながら In temop と書いてあるのにIn tempo で弾いていないのは早すぎて難しいからか、とか色々考えたものだ。ちなみに僕が聞いていたレコードはイッセルシュテットとウイーンフィルの演奏で大好きだった。この演奏もレシタティーヴォは冒頭のテンポの約3倍、四分音符が66くらいで弾いていたと思うし、この間書いたコンセール・コロンヌでも取り立てて記憶が無いので多分似たようなテンポで弾いたのだと思う。 そういう演奏が普通だったと思う。「レシタティーヴォのキャラクテールにより」と書いてあるのだからそれでもいいのだろうとも思うが、それでもin tempo という言葉がどうしても引っかかってくる。
 
  そこで、in tempoとはベートーヴェンがやはり同じテンポを望んでいたと仮定してスコアを読み直してみる。そうすると、このレチタティーヴォはオペラのシーン風に言えばバリトンバスが舞台ソデから足音も荒々しく登場し、何かただならぬ急を告げる感じに聞こえて来る。そうするとさらには第3楽章のピアニッシモの淡白な終わり方もその伏線として生きてくるように思える。冒頭の序奏部分は天国的美しさの第3楽章の音楽すら猛々しく否定する音楽という捉え方をするのが一般的だが、チェロ、バスのレチタティーヴォもその延長上にあるというか、こちらが本当の意味での「否定」のような気がする。しかしなぜベートーヴェンはシラーの原詩にはない ≪ Oh Freunde, nicht diese Tone ! ≫ をすぐこの部分にもってこなかったのかという疑問がわいてきた。が、しかし第一、第二、第三楽章のテーマを毎回少しずつ出してそのたびに違う形で答えるのに言語で明確に何かを言うと具体的過ぎるという気もする。
 
  話をもどすと、ベートーヴェンはレシが前楽章のテーマを中断して出てくるたびにTempo I と書いている。先の論で行けば毎回66でなければならない。しかし例えば、77小節目からの「歓喜の合唱」(=80)が出てきた後のレシは,=80という風に大体同じテンポで演奏することが多い。(またはそれよりちょっと速め?)その方が演奏する側も指揮者も都合が良いのである。オーケストラではしばしばこういうテンポの変わり目を前のテンポと関連付けて行う。オペラでも難しいところはそういうことをする指揮者が多い。それが安全で少ない練習で間違えなく機能するからである。しかし、演奏会場で楽譜の読めない音楽知識もあまり無い一般の聴衆には、いや生まれてはじめて聞く人にとってどういう風に聞こえるだろうか。2/2も3/4も知らないわけだし楽譜を見てい(見られ)なければテンポが変わったという風には聞こえない。僕はこういうのは演奏者の怠慢だと思う。自分たちが見ている楽譜の中で視覚的にテンポが変わっているのでそれでよしとする本末転倒の姿勢である。
Ex 1はテンポの変わりをで演奏した場合を分かりやすいように で記譜した。この場合実際的にこう記譜するのが普通だろう。


楽譜作成ソフトでできる音で、はなはだ非音楽的だが、テンポは忠実に再現するので聞いてもらいたい。音源.1 

そしてEx.2は原曲のテンポ指定どおり弾いた場合である。テンポの変化は機械なので無感情である。 音源2

 どうお思いになるだろうか。2/2は=80(=160) 3/4は=66(=198)なので、当然のことながら激しくテンポが変わる。テンポを確かめてリズムをとりながらやってみたら初めは僕も違和感があった。人の耳は(味覚も?らしい)子供の頃の記憶に強く左右される(先入観を植え付けられる)と聞いたが、イッセルシュテットを何度も聞いた耳には確かに速過ぎに聞こえた。何に対して速すぎか。それは言うまでもなく自分の経験とそれから生まれた趣味に対してである。しかし、ベートーヴェンが毎回Tempo I と安易に書いたとは思えない。いや死の直前まで楽譜の間違えにこだわっていた天才が、しかも自分の最新のシンフォニーにそんな安易だったわけがない。 

 メトロノーム表示で気づいたことが他に二つある。M331からのマーチと終わりの方M916のMaestosoである。実はついこの間まで第九のスコアは中学の時に買った全音出版と、もうひとつちょっと面白いイゴール・マルケヴィッチ校訂のライプツィッヒ ペーター版は持っていたが、最近出たHenleとBaerenreiterのUrtextはどちらももっていなかった。話がちょっとそれるがこのマルケヴィッチ版は弦楽器に統一したボーイングが記されていて、所々音にも手が入っていてそれなりに興味深い。
 マーチは全音もペーターも付点4分=84だが、これはいかにも遅い。一般的演奏でも記憶をたどれば最低でも120あたりだろう。色々考えてみた。テノールのソロは結構難しいヴォカリーズが多いせいだろうか。コントラファゴットはこれくらいの間隔でしか音を出せないのか?(これは冗談)。それともひょっとして付点二分の間違え?メトロノームで検証。かなり速い。こんなテンポでは弾いたことが無い気がするが不可能ではない。やはりこれは一度Urtextをみなくてはと楽譜店に走った。案の定HenleもBaerenも84だった。 このテンポで非常に納得するのはマーチの冒頭である。コントラファゴットと大太鼓の「裏打ち」の意味がこれで合点が行く。この部分は伝統的な演奏ではなんと言うかもったいぶったような、わけの分からないような空白の時間のようによく演奏されるが、84のテンポ感はロッシーニ的である。シンバル、大太鼓、トライアングルもちょっとそれを証明している。 以前別の項でも書いたようにこの頃のウイーンはロッシーニの時代でもあった。オペラではもう盛んにこれらの打楽器は使われていたが、交響曲とオペラにはまだまだ垣根があってこういう楽器をコンサートホールに持ち込んだのはベートーヴェンが初めてといわれていたっけ。 ドイツ系の音楽学者たちは昔から「トルコマーチ」(間違えでは無いが)といってロッシーニの名前を出すのを嫌っていたが、このすっ飛んだテンポはイタリア的だし、もしかしてベートーヴェンのロッシーニに対するウインクだと思ったりすると楽しい。それがベートーヴェンの不名誉になると思うところがおかしいので、もういい加減そういう発想はドイツ人もフランス人もやめたらよい。ただの大国覇権意識だ。それに、イタリア的といわれるのが嫌なら、この後テノールのソロが終わってからのフーガはベートーヴェンの書いたフーガの中でも超の付く名作である。初めのトルコマーチの面影はもうどこにもなく、もうベートーヴェン以外の何者でもない。(大フーガに非常に近似した音楽だ)こういうほとんど素朴で無頓着な音楽からあの驚異的なフーガに発展する音楽を書くところがまさにベートーヴェンの天才ではなかろうか。それにしても付点四分=84とはいったいどこから出てきたのだろう。

  Maestosoの =60のほうは全くお話にならない。32分音符が出てくるとわけ振りをしないと気がすまない指揮者が多すぎるのでこういうことがまかり通ったのかなとか思う。確かにあの部分は譜面で見るとPrestissimo(132)から急激なブレーキがかかるように思えるが、=132から=60は即ち=66から=60だから、本当はちょっと遅くなるだけだ。


 これは先に書いた例と反対で譜面上の見かけはまるで別のテンポの様に見えるが、実際耳にするテンポはわずかにおそいMeno mosso程度のことになる。このテンポで≪ Tochter aus Elysium!  Freude, schoner Gotterfunken !≫ と歌ってみるとその感じがよく分かる。音楽的に流れがいいし、歌詞の上からも ≪ Tochter ≫ が妙に間延びした≪ To-o-o-o-chter ≫ の様にならないで自然に聞こえる。 Maestosoは音楽用語としては非常にバロック的でレトリックな言葉である。宗教音楽の中では文字通りMaestro「主」を意味する言葉である。バッハもモーツァルトもハイドンもMaestosoの音楽はある一種のバロック的共通性がある。 日本語には「堂々と」とかに訳されるがこの訳だと本来的な「主」の意味が表れない。 蛇足的だが、このテンポだとさらに最後のPrestissimoに入った時に残る ≪ funken ≫の二つのシラブルが前のテンポとそれほど違いが生じず ≪ Gotter-fun-ken ≫ と自然に響く。

 

 

2010年12月14日