バッハ日記 7

どこまでも未解決のバッハ無伴奏チェロ組曲の私が選んだ「解」

 

無伴奏チェロ組曲はアンナ・マグダレーナ バッハ(以下AMB)の写譜とその他の多くの文献を探ってもバッハが果たしてどお書いたのか疑問の残る音が沢山ある。様々な出版社や研究者、演奏者がそれぞれいろんな解答を出しても尚かつである。
そういう音を一応ランク別に分類してみると大体以下のようになるのではないか。

1)AMBの明らかな写し間違い。この中にもはっきりと間違いであると殆どの人の賛同を得ているものと、「写し間違い」、「否,そうではない」と論争になっているグレーゾーンの音も多くある。
2)主張が分断して未解決なもの。(第3番サラバンド、第4番プレリュードなど)
3)間違いなのか、そうではないのかすらはっきりしない厄介なもの

さて、しかし演奏者は私的なもの公的なものに関わらず、人前で弾く時にはどれかのたった一つの音を選択し弾かなければならない宿命を背負っている。その点出版は注釈をつけて様々な見解を提示出来るという逃げ道を持っている。ブライトコップフ版はその逃げ道を多いに活用して譜面上に様々な見解を同時に書くという前代未聞の手段を選んでいる。このやり方は文献としては優れているかもしれないが、実際に楽譜を読んで弾くには煩雑で、場合によっては邪魔にすらなると言う不利点もある。ベーレンライターはかつての「新バッハ全集」の一環で出されたヴェンツィンガー版(50年代に出され、当時としてはもっとも信頼に足る版だった。私たちが学生の頃はこの版が殆ど唯一の「正規版」として使われていた。)から半世紀あまり、新しく出版されたものもブライトコップフと同様に様々な文献の違いを載せているが、同時にバッハ日記3で書いたように主要な文献のファクシミリをそのまま印刷して出してくれたのがありがたい。何れにしてもこの2社も、これらの問題点の確定を諦めたのだろう。

この話はこのくらいにしてさて、私はそれではどういう考えで弾くかと言う事を今日は書きたい。

一言でいえば、これらの論争は今後、より決定的な文献が発見されない限り結局は不毛の論争になるのでとりあえずの音を決めて、どうこう言うのはやめたのである。(決定的文献とは、例えばバッハの自筆はもとよりだが、もうひとつ期待したいのは実際に弾いた人が使った譜面が見つかるともっと良いと思う。あり得ないことではない)ちょっと乱暴な言い方になったが、やめたといっても論争になっている音の何かは弾かなくてはならない。その選択法は様々だが、ここではひとつだけその例を示して以下はそれぞれの組曲の私の見解の中で詳しく述べる事にする。

Sarabande I

譜例は第一番のサラバンド。問題の箇所は第4小節目の4音目が「ソ」又は「ラ」かである。音源1(音源はフィナーレの再生ファイル。チェロの音は聞くに耐えないのでとりあえずチェンバロの音にしました)

この音はケルナー版以来ほとんどが「ソ」だったせいか殆どのチェリストの録音も「ソ」を弾いているし、私もずっとそうしていた。しかし事実は小節より奇なりで、悪い事にAMBの写譜はどっちの音にも見える最悪の場所に書いてある。

これをケルナーあるいはAMBの写し間違いとするかどうか犯人探しをしてもしょうがない。明日バッハの自筆譜が見つかるか、バッハが生き返ってご本人様に聞いてみるしか解決法は無いと思っている。しかし、この音に関してはバッハにもし聞いたとしても、「ふん、良い質問だがどっちもあり得るから好きな音を弾きたまえ」と答えられるような気がしてならない。他にもそういう例があるのでそれはその都度述べる。

この場合、私の考えはどちらも正解である。どっちの音を弾くかはそのとき決める。正解である理由は和声的裏付けの仕方がそれぞれ出来るからだ。
譜例AとBはそれぞれのバス声部の動きを想定して書いた。

Aは問題の音がラの場合で、バス進行をFis-Dと想定した場合。音源2

Bは問題の音がソの場合で、バスは一拍目が8分音符2個のFis-Gで2拍目がDと考えた場合。音源3

Dはもう少し凝った和声進行を使って問題の音は又ラの場合。音源4

他にももっといろいろ凝った方法は考えられるが曲全体が非常にシンプルな曲なのでこれ以上凝ったバス声部の動きはおそらく却って不自然だろう。何れにしてもバッハ本人ではない限りどう思ってこの部分を書いたかは想像の範囲を出ないが、反対にバッハでなくても作曲理論的に考えて、バッハの他の曲の「クセ」を知っている人にはこういう例を思いつく事はそれほど難しい事ではない。

バッハに聞いたら好きなようにと答えられたという上記の理由はここら辺にある。おそらくバッハはこの第一番程度の曲は殆ど書き損じ無しに半日程度で即興的に書けただろうと思う。(実際に半日で書いたかどうかは知らないが)そうやって書いている間頭の中には架空の和声体系が同時進行していただろうが、その体系も同時に様々考えていただろう。

作曲する時はバッハではなくてもそういうことになる。だから、もしバッハがこの曲をある日また何かの曲に書き換えたとしたら(そういう例はバッハには沢山ある)また違う音や違う和声をつけたかもしれないし、もしチェンバロやオルガンで即興の主題に使ったらその二通りを使ったとだって考えられる。

バロック時代の音楽は特に即興性を重んじられた。シンプルな音の連続する音形は間を即興音、装飾音などで「埋める」事が通例であった。

この部分も、もっとシンプルな譜例Cのような音を装飾的に埋めた音と考えた方が自然である。この譜例では4番目の16分音符を「ソ」又は「ラ」の二つの場合の違いをかき分けて書いた。ハタが上向きは「ラ」の場合、下向きは「ソ」の場合である。

しかし、バッハは幸か不幸かこの「装飾」の習慣をあまり好まず、自身で装飾音あるいは即興音を書くようになって行った。おそらく同時代人の稚拙な即興を苦々しく思っての事ではないかと思われる。バッハの、装飾音まですら書いてしまうある種の几帳面さは、同時代の他の作曲家から批判されていたのだと先日ある方から聞いた。

しかしバッハが装飾音まで書いてくれたお陰で、バッハがどういう風に即興していたかを後世の私たちは想像する事が出来る反面、即興音、装飾音を「真に受けて」「実音」(こういう言い方は無いが、便宜上音の構成上骨格となる音の事をそう呼ぶ事にした)のように弾いてしまう過ちも歴史上沢山して来た。装飾音の仕方、即興音の付け方は一応の規則のようなものがあるにしても、原則的にひと様々である。同じ人でも(たとえバッハ本人ですら)その時によって変わって来る。と言う事はそういう音の一音一音を斟酌するのはやや滑稽な論議となるのである。

そういう理由があるので、バッハを弾くとき装飾音、即興音と「実音」を見分ける耳と知識は不可欠となる。これが今日の結論、、、めいたお終いの言葉になる。

 

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copyrigt Naoki TSURUSAKI


 

                      

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