2006-02-25
今週はエマニュエル・クリヴィヌの指揮でモーツァルトのレクイエムです。
今日はグルノーブルの新築改装されたコンサートホール、明日はリヨンのオペラ座で本番です。クリヴィヌは元リヨン管弦楽団の音楽監督で、強い個性の持ち主として知れれていて、在任中にもいろんな逸話の多い人でしたが、リヨンオペラ座にはこの数年毎年のように来ていて良好な関係にあります。
このあまりに有名なレクイエム。ミロス・フォルマンのあの映画でも非常に上手く使っていました。モーツァルトが《コンフタティス》を死の床から歌ってサリエリに書かせる場面ですが、史実とは全く違うとは言え、この二人の音楽家の精神の深いところでの真実を描いていると思わせられるところが凄いところです。この場面に 《コンフタティス》 を使ったフォルマンの音楽家としての耳にも唸らせられます。
激しさと天国的ソットヴォーチェの葛藤の後に来る減7和音を使い半音階転調を繰り広げながら、下降して行き《ラクリモザ》にたどり着くところは殆ど異常なくらい凄い音楽です。《ラクリモザ》は説明の必要のないくらいの美しい音楽ですが、この中に絶望の叫びを聞くのは僕だけでしょうか、、、
しかし、、、、、
この後に続く、F,X ヅュスマイヤーが補筆完成した部分になると僕はどうしても気分がしらけてしまうのです。ヅュスマイヤーもさすがに前半部分の凄さに触発されてかなりな所を行っているし、決して彼が悪いのではなく、依頼されて報酬を受け取るべき仕事である以上、この人を置いて他にこの仕事を完成させるべき人も居なかったのも良く解るのですが、《レクイエム エテルナム》から《ラクリモザ》まで流れてきた音楽は途切れて、全く常套的な書法の普通の音楽(こう言ってはヅュスマイヤーに失礼だけれど)になっています。《死者のためのミサ》としての形を優先して最後まで演奏することより、いっそのこと《ラクリモザ》で中断してしまった方がいいのではないかと、僕は思たりします。
《ベネディクトゥス》と《アグヌスデイ》は特に気になる部分で、常套的なフーガなどの定型音楽を使えない部分なので、ヅュスマイヤーが作曲家としてすべてを責任もって書かなければいけない辛さがあったと思います。これだけ独立して聞くと、美しく優れた音楽で、並々ならぬ才能の作曲家として、モーツァルトが信頼していた人だということも良く解るのですが、いかんせん目の前に立ちはだかっていた人は、たとえ背が低く、決して見栄えのするほどの人ではなかったとは言え、何世紀に一人と言う天才。その天才が死の数ヶ月前に異常な執着を持って書いた音楽だったのです。
最後の《ルクス・エテルナ》はもしも僕がヅュスマイヤーの立場だったら同じ事をしたかもしれません。おそらくモーツァルトに敬意を払い、冒頭の音楽をそのままパロディーにして当てはめてしまったのでしょうが、、、
《キリエ・エレイソン》 と、《クム・サンクトゥス・トゥイス》のシラブル数の違いから来るリズムの変更がこの優れたフーガの躍動感を、根本的に変えてしまっています。それともこれはモーツァルト自身が予定していたのでしょうか。
こういったこの曲に関する論議は古今たくさん在ったのでしょう。最近は科学的に?検証して数少ないエスキス(スケッチ)から未完部分を復元した版があるとどこかで聞いたことがありますが、どんなものなのでしょうか?
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